米庄 田中麹屋のルーツ
三国の松ヶ下区にある素敵なかぐら建ての町家「米庄 田中麹屋」。もと麹屋さんだったこの建物は、ご当主の田中さんが三國湊町家PROJECTの趣旨に賛同して、建物と土地を三國會所に無償譲渡してくださいました。家を貸して欲しいと私達三國會所が田中ご夫妻の元へ訪ねてから約1年半の間、最終的に譲渡をご決断されるまで、ご夫婦の間でも何度も何度も話合いをされてきたそうです。そうして譲渡することを決意されてからは、最後に家をきれいにしてからお渡ししたいと、日々少しずつ荷物の整理と家の手入れをされてこられました。下記にご紹介する文章は、その作業を進めていかれる中で、自然とご自身と田中家のルーツを探し巡ることになった時間を奥様が文章にしたためられたものです。この文章は「自分史」として写真と共に三国図書館にも置かれるそうです。
今回は田中さんご夫婦のご了承を頂いて文章のみ掲載させていただきます。
空き家を利活用させていただくことで、私達も家の歴史・想いを受け継いでいくことになるのだと、背筋が伸びる思いです。失敗も反省することも今後もたくさんあると思いますが一つずつ丁寧に取り組んでいきたいと思います。
絆・「ルーツを尋ねて・・・。」
平成27年7月中旬
今の私の心境は、「温故知新」です。
それは、2年前、義母の他界から始まります。
主人の実家は三国の松ヶ下で、「米庄」という屋号を持ち、先祖から父母まで主に米麹業を生業とした商家でした。
その家屋は、土地台帳によると「明治」以前からの建物です。
一番奥に麹室、手前に進んで蔵座敷、中庭、雪隠(トイレ)、風呂場、上り框をあがって部屋が3室(座敷等)、1番前に店(玄関)と続きます。その片側左は、笏谷石の敷き詰められた、長い通り廊下でした。
私が嫁いだ昭和54年の頃、トイレは「水琴窟」が手洗い場にあり、水を落とすと、なんとも言えない「音色」を響かせたものです。
時代の流れで、五右衛門風呂も水琴窟のトイレもかぐら建ての店も変わってきました。
派手さは無いけれど、遊び心も取り入れた「質実剛健」な家は、江戸から明治の、時が醸し出す独特の空間に感じました。
夏になると、海へと注ぎこむ、九頭龍川を渡る川風がこの家を吹きぬけて、涼しいものでした。
その家に、父、亡き後を守り、一人、気丈に、そして努めて明るく、義母は暮らしていました。
平成25年6月15日
その義母を、4年余りの介護の後、86歳で見送りました。 介護の間は、毎日に夢中でしたが、亡くなった後、寂しさがじわじわと募り、「親」という大きな存在を、今更ながら思いしりました。もっと、話をしたり、聞いておけばよかったと思ったのでした。
49日の忌明けを終えた頃より、一人居だった義母の家財や衣類など、片付けを始めますが、元気な頃や看取りの思い出が沸き上がり、なかなか捨てられず、はかどらない事となりました。
そうして整理する中、もっと困ったのは、見た事のないセピア色の古い写真の数々、仏壇の上や引き出しから出てきた先祖の過去帳や香典帳、高祖父の自筆の履歴書(いわゆる自分史か?)等々。
きっと、私達にゆかりの先祖や親族だろうに誰なのか、係わりなど、わからないのです。
主人が父母から聞いていた僅かな話や、写真の裏に書いてある名前や住所、香典帳から、記憶を辿り、つなぐ中、「知りたい」、「知らなければ」、という気持ちになりました。
折しも、テレビ番組の「ファミリーヒストリー」が好きで、よく視ていましたが、私達も、
「ルーツを知りなさい」という「天の声」だったのでしょうか。
戸籍、次に土地台帳、県立図書館の文書館(松平文庫の資料)、市立郷土歴史博物館等、考えられる方法で、家の片付けも、そこそこに心が体が動きました。
そこで様々な事がわかってきました。主人の父方の高祖父は、幕末、福井藩の武士の二男で、名を「桑山竹次郎」といいました。廃藩置県で武士の制度が終わり、明治6年25歳で婿養子に来られて、私達につながっていました。
古くから「港」として栄えた、坂井湊の商家に、どのようなご縁で来られたのでしょうか。
今年の大河ドラマ「花燃ゆ」の時代そのものの、18歳の青年武士として、参戦していた事が、自筆の履歴書で明らかとなり、びっくりしました。
そして、もっと驚いたのは、高祖父の父親である「桑山十蔵」翁は、「松平春岳」公に仕え「禁門の変」で長州の「入江九一」達と戦っていたのです。
「敵ながら天晴れな働きをして死んだ武士の遺骸をそのままにしておくのは忍びない」
と、春岳公の許しを得て、越前松平藩の京都の菩提寺(上善寺)に葬り、供養した事を市立郷土歴史博物館の先生から、お聞きできたのです。
この史実は、長州(山口県)の人々にも伝わって「人の情け」で感謝されているそうです。
私は、この話を聞いた時、とり肌が立ち、涙が流れました。感動で心が震えたのです。
それまで、歴史の話は「本」や「ドラマ」の世界だったので、先祖が深く係わっていた事は、「青天の霹靂」だったのかもしれません。
平成27年6月5日
義母の3回忌法要を済ませました。
「ほっ」とするのと同時に、「家」を出るべく最終章で、片づけに追われています。
その理由は、「坂井市・一般社団法人・三國會所」に、土地、建物共、寄付すると決めたからです。
その顛末は、こうでした。
さかのぼって 平成25年11月21日
住民説明会の案内があり、参加しました。
それは、古い町家などの空き家を、保存、改修、活用して住民の憩いの場としたり、内外の人を呼び込み「活性化しよう」という内容でした。
今、全国的に、「少子高齢化による空き家」問題や「ふるさと創造プロジェクト事業」として「地域おこし」が話題になってます。
私達も、父母、亡き後の「家」について、思案を始めていた頃でした。
その後、三國會所から「街並み保存で活用したい」と、申し入れがありました。
熟慮の結果、譲渡する事としました。
が、しかし・・・。
後々、主人ともども、心の葛藤は大変なものでした。
先祖が代々、守り、暮らしてきた土地、建物への愛着。
私達の代で、維持、継続できない申し訳なさ等々・・・。重くて辛い決断でした。
でも、苦しいながら、決めた答えに、前へ進むしかありませんでした。
平成27年4月中旬
さらに、片付けを進める中
或る日、蔵座敷きの扁額に目が止まりました。私は、その文言や力強い書体に、何故か、釘づけになりました。
「立身守忠直」、次に「○岳」の名、次に「明治○○」の年号、印(落款)が3つ。読めない字もありましたが、「春岳」公ではと直感しました。不思議な体験でした。
その後、学芸員の方に調べて頂いた結果、「真筆」でした。父母からは、何も聞いておらず、主人と二人、非常に驚きました。
推測すれば、春岳公から十蔵翁へ、そしてわが子、竹次郎(高祖父)へという経緯でしょうか。
文言の意味は
「人は立身出世をするには、忠実で正直でなければならない」との事です。
私は、勝手ながら、こう解釈しました。
「今、居る場所で、立場で、しっかり生きていけよ!がんばれよ!」と・・・。
熱いものが、こみあげてきました。
昔も、今も、「人情」や「喜怒哀楽」は、人の世に共通して有る事を、再確認し、遠い先祖達を近くに感じました。
江戸幕末から明治へと、激動の時代に、「士、農、工、商」と日本中の皆が精一杯で生き抜いて、平成の私達につなげて下さった事を、有難く思いました。
平成27年7月13日
わが「家」を後にしました。
私達には精一杯の日々でした。
義母から始まった「温故知新」。
「古きを尋ねて 新しきを知る」
今年、強く発心して、ルーツを尋ね、出会い、知り、つながった日々は、驚きと感動の連続でした。でも、本当は、見えない「絆」に導かれて、ここまで来られたと思います。
私達は、義母を見送り、思い出深い「家」を後にしますが、「意義ある継承」を信じて三國會所に託します。
そして、自分達は
「今、居る場所で、一所懸命、生きていこう」
「一日一日を大切に、生きていこう」
これが先祖から学んだ事です。
現代も、多事、多難な時代で、不安もいっぱい、ありますが、「親」から「子」へ、「孫」へと次々つながっていく世であれと願うばかりです。
「絆」と「明日」を信じて。
平成27年12月吉日