三國湊町家プロジェクトのなかで、若手として期待されている二人がいます。三國會所町並み委員長の浜田さんと、三国の町づくりのベースとなっているグランドデザイン制作者であり、同じく町並み委員会メンバーである倉橋さん。
湊町の真ん中で生まれ育った30代の2人が、これからの三国をどう考えるのか。熱い想いを聞きたくて、対談インタビューを行いました。今回は番外編です!
倉橋 僕は高校卒業後、都会に憧れて東京へ出ました(笑)。もともと町づくりに関心があったわけではなく、「面白そうかな」というくらいの気持ちで入ったゼミが西村幸夫先生の都市デザイン研究室でした(※1)。ある時、研究室の飲み会で三国出身だと伝えると、西村先生が「俺は三国が大好きなんだ!」と言って、みんなに三国の素晴らしさを話してくれたんですよ。びっくりしましたね。その言葉が僕のその後の人生を決めたと言っても過言ではありません(笑)。それを機に三国を見つめ直すようになり、卒業設計のテーマはもちろん三国にしました。
倉橋 大学院試験に落ちて留年している間に、旧森田銀行で卒業設計を展示発表しました。それが2002年。ちょうど三国では、旧岸名家や旧梅谷家(現三国湊町家館)の保存・活用の動きがあったり、町並み保全のための景観条例を作ったり、さまざまな変化が起きつつあるタイミングでした。そこで町の人たちに出会い、グランドデザイン制作を依頼されました。
倉橋 はい。でも、大学院でも三国の町並みの研究をしていましたし、その後も働きながら三国のまちづくりの手伝いは続けていました。卒業後は東京で都市計画のコンサル会社に入り、さまざまなプロジェクトに携わりました。仕事では大都市や都市部に関わることが多かったのですが、自分の中での立ち位置はやはり三国であり、地方都市でした。大都市と比べて、地方では人口の減り方がまるで違うし、若い人がいなくなっている。そして、どんどん空地が増えている。そういう状況での都市づくりは、大都市とは考え方がまるで違うのではないか、地方で、現場で考えたいと思うようになりました。そのような考えから福井県庁に入りました。
浜田 大阪で就職するつもりはなかったけれど、三国に帰ると決めていたわけでもありませんでした。大阪で暮らして一年目に阪神大震災が起きて、それでなんとなく三国に帰りたいと思ったのかな。海で遊んでいた高校生のころ、イベント会社の人たちに可愛がってもらい、音響の仕事に興味を持っていることを伝えていました。その縁で、福井のイベント会社を紹介してもらい、福井に帰ってきました。
浜田 三国が好きというより、育った環境が好きという感覚なんでしょうね。祖父が桶職人だったことも、三国への愛着や伝統文化を大事にしたいという思いにつながっているのかもしれません。僕が物心ついた時には、三国の海女さんたちが使う桶を作っているのは、祖父ただ一人になっていましたから。祖父の昔の仕事場が郷土資料館に再現されているんですよ。まぁ、なんだかんだ理由を言っていますが、はい、三国が好きです(笑)
浜田 仕事で金沢に行った時に、リノベーションされたオシャレな飲食店にたまたま入り、そこで金沢R不動産や東京R不動産の馬場さんの存在とリノベーションという動き、金沢での町づくりの動きを知りました。金沢の古い町並みは三国にも似ていて、それなら三国でも面白いことができるのではと感じ、町づくりに興味を持ちました。その想いを久米登さん(三國會所理事長大和氏 ※以下、「久米登さん」)に伝えたことがきっかけとなり、町づくりに誘われました。久米登さんにとっては、小さいころから知っている近所の若造がそう言ってきたわけだから、思うところもあったんでしょうね。僕の気持ちが決定的になったのは、金沢での仕事先でたまたま馬場さんの講演を聞いた時。「これは面白いな!」と思ったんです。
倉橋 何かきっかけがないと、あまりに当たり前すぎて町の良さには気づけないのかもしれません。
浜田 僕らの共通点は、「気づいた」ということ。三国で暮らす人たちに、僕たちが気づいたことにどう気づいてもらうか。それを常々考えています。
浜田 町並み委員会の委員長になったものの、何をすればいいのか分からなくて、そんな時に倉橋君のグランドデザインを知りました。「こんないいものがあるじゃないか!」と。それで、委員会でグランドデザインをしっかり見ようと提案しました。
倉橋 僕も久米登さんに誘われて、町並み委員会のメンバーになりました。そして浜田君からグランドデザインの説明を頼まれて、この湊座で発表しました。その時に、初めて会ったよね。
浜田 うん、何をすればいいのか悩んでいた時に、倉橋君のグランドデザインに出会えた。そこには、それまで漠然と考えていたけれど口下手な僕には伝えられないことが、分かりやすく書いてある。うれしかったですね。僕と考えていることが似ていて、なおかつアイデアを補足してくれる。すごいなと思いました。
倉橋 同世代でそう言ってくれる人に三国で初めて出会えて、僕もうれしかったです。「グランドデザインに書いてあるが!僕、どうしようかと思ってたんやって。よう書いてくれたの」と言われて、ようやく仲間を見つけたと思いました。
倉橋 子どもたちが、いろんな人に出会えて、いろんな環境に足を運んで体験し、刺激を受ける。そんな町であればいいですね。三国はいいところが玉手箱のようにある町。歴史文化の薫る古い町並みが残る湊町にくわえ、海や丘陵地の豊かな風景や漁業や農業などの生業も揃っています。これらを一堂に表現できる町はそれほど多くありません。三国は可能性の高い町です。
浜田 うちは息子たちが幼いころから、自転車で湊町散策に連れ出していました。路地裏の小さい坂道を進んだりしてね。それで、祭りの時に「おまえ、あの裏道を通って行けよ」と教えてやる。僕もそうやって育てられてきたから、将来息子たちが三国から出たとしても、僕のように戻ってくる気がします。だからこそ、帰ってきたいと思える魅力を残してあげたいですね。
浜田 根本的には、グランドデザインにも書いてあるように、キーワードは「祭り」だと思います。僕が住んでいる南末広区は、8年に一度山車を奉納します。地区の青年団が主体となって山車を運行しますが、若者が少ないから青年団も成り立たなくなり大変です。これはどこの地区も同じだと思いますが、人手不足なんです。祭りを存続させるためには住人を増やさなければなりません。三国から出て行った同級生たちが「帰りたい」「やっぱり三国に住みたい」と思える町にしたいです。
倉橋 若い人たちに「この町はいいぞ」と言えるようにしたいし、自分の生きる町を決める時に三国を候補に挙げてもらえるようにしたいです。若者が集まる場があるといいですね。でも、僕たちは普段は仕事をしていて、その間に事務局主体でプロジェクトが進んでいる。自分で空き家交渉をするわけにもいかない。意見を言うことしかできない現状にフラストレーションがたまっているかも。
浜田 僕も同じだな。自分が何もしていないのに意見を言うだけでいいのか、という気持ちがあります。でも、いま以上の関わり方はできないから、二人で話し合っています。部室みたいなところがほしいですね。
倉橋 町家プロジェクトに関わって、自分たちの手で何かやらなければならないと考えるようになりました。生活とのバランスのなかで、どれくらいリスクを背負えるのかを見極め、踏ん切りをつけることが必要です。プロジェクトは大きい概念の話。それも大事だけど、自分たちの手で、もう少し小さい場所から始めることも大切ではないかと。
浜田 はい。町家プロジェクトにも関わりつつ、自分たちの手でもやってみたいです。そこから見えてくるものがあるはず。そもそも今の活動の原点は、「自分がやりたい」という気持ちでしたから。ゲストハウス改修ほどの規模は難しいけれど、自分たちで出来る範囲からやればいい。空き家が壊されると寂しいんです、すごく。空き家といっても建物はしっかりしているから、自分たちの場づくりならお金がなくともできますよ。
倉橋 いいね!僕たちの空間づくり、やろうよ!とりあえず「面白そうだからやろう」でいいんじゃないかな。まずは自分たちで、人が集まれて自由に使える空間を作りたいですね。僕たちが自分たちの手で「場」を作ることができたら、何かが変わると思います。「面白いことをやっているな」と若者が集まり、そこから空き家に住む人が現れ、取り壊される家が減るといいですね。
浜田 町づくりをやるなら、本来は転職を覚悟すべきなのではという葛藤があります。でも、それは無理。それなら、働きながら自分が出来る範囲で動きを作ってみたいです。プロジェクトには参加しているけれど、自分の手でやっているという実感があるわけではない。だから、自分たちでやってみたいです。
倉橋 できるところからやってみようよ。思っているだけでは進まない。自分たちで若い人を三国に呼びましょう!どこがいいかな?狙っている家はあるんだけど。
浜田 あの空き家がいいよね。ずっと悶々しているだけでは駄目だし。おっしゃ、やりますか!
インタビュー後も、これからの自分たちの拠点づくりについて話を続けていた浜田さんと倉橋さん。「三国の町をなんとかしたい」という思いが町家プロジェクトにつながり、そこから仲間を得て、新しい一歩を踏み出そうとしています。この二人が出会ったことも、町家プロジェクトの一つの成果。これからの町家プロジェクトにますます期待ができそうです!